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真言宗豊山派(ぶざんは)。
山号は大慈山(だいじさん)。
本尊は合体大師(がったいだいし)。
法皇寺(ほうおうじ)ともいう。
推古天皇の勅願で聖徳太子の建立とされる。
この地は、二千年前の弥生時代から多くの人々が住んでおり、
継体天皇が弟国宮(おとくにのみや)を築かれたとも言われる。
この景勝の地に、推古天皇の勅願を受けた聖徳太子は、
十一面観世音菩薩を本尊とする伽藍を建立され、この寺が乙訓寺であった。
延暦三年(784年)、桓武天皇がこの乙訓の地に遷都されたとき、
京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築された。
この当時の境域は、南北百間以上もあり、建てられた講堂は九間に四間の大建築であり、
難波京の大安殿と同じ規模のものであった。
早良親王(さわらしんのう)のゆかりの地として知られる。
早良親王は、延暦四年(785年)に起こった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の
暗殺事件の首謀者として捕まり、この地に幽閉された。
弘仁二年(811年)十一月九日の太政官符をもって、空海を別当にされた。
空海が別当として入寺して以来、真言宗となったが、室町時代に足利義満が禅宗に改宗。
江戸時代には桂昌院の援助をうけて再興され、真言宗に戻った。
本尊の合体大師は、弘法大師と八幡神の合体像と伝えられ、「八幡弘法合體大師像」と称される。
秘仏であり、首(みぐし)は八幡大菩薩、支体(かたち)は弘法大師。
縁起には、乙訓寺に在住していた大師が、ある時八幡大菩薩の御影を造ろうとすると、
八幡大菩薩が老翁となって現れ、「大師はその首を造りたまえ我は支体を造らん」と互いに約諾し、
大師がさっそく首を造り終えると再び老翁が支体を持って現れた。
これらを合わせると少しの違いもなかったと記されており、「互為の御影」と語り継がれている。
毘沙門天立像(重要文化財)を所蔵。
檜材寄木造であり、彫眼、彩色仕上げで各種の截金(きりかね)文様が表面に残っている。
足下の邪鬼は一木造で当初のものと思われる。
憂いを含んだその表情から「憂愁の毘沙門天」との異名を持つ。
像高約1メートルの優作。平安後期の作と考えられている。
その他、木造の十一面観音立像、木造の狛犬、
桂昌院遺愛の品である紙本金地着色 柳鷺図屏風(部分)なども所蔵。
境内には柑橘樹がある。
弘法大師が別当として乙訓寺在任中の弘仁三年(812年)秋には、
恒例により境内になった柑子(かんす=蜜柑の意)の実を摘み、漢詩を添えて嵯峨天皇に献上された。
蜜柑を献上された事実は、空海の弟子である真済(しんぜい)が編集した「性霊集」に記されている。
境内に現存する大師ゆかりの柑子は、実生から育てるという手法で、
代々の住職の手により大切に守られ現代に伝えられている。
(真言宗 乙訓寺(おとくにでら) しおり」および
「増補版 京都・観光文化検定試験 公式テキストブック」より参照)
乙訓寺の見所は、まずは何といっても牡丹の花です。
春には多種多様な牡丹が境内を華やかに彩ります。
春の牡丹の時期は多少混みますが、他の時期は空いており、
静かにゆっくり拝観できます。
秋には見事な紅葉が見られますが、秋の紅葉シーズンも空いています。
京都の穴場のお寺と言えます。
静かにゆっくり拝観できます。
乙訓寺は京都の牡丹の名所です。
乙訓寺と言えば牡丹、京都の牡丹の名所と言えば乙訓寺とされるほどです。
春の牡丹の時期には、境内は色とりどりの大輪の牡丹の花につつまれます。
直射日光をさける和傘も華やかさや風情をそえています。
乙訓寺は京都の紅葉の穴場です。秋には境内が紅葉で赤くそまります。
派手さはないかも知れませんが、立派な木もたくさんあり、鮮やかな紅葉が楽しめます。
しかし、人はいません。驚くほどにいません。時間帯によっては貸切状態となります。
京都の紅葉の穴場と言えます。
また柑橘の実と紅葉のコラボも楽しめます。
住所:〒617-0814 京都府長岡京市今里三丁目14−7
※その他のアクセス方法もあります。上記は一般的なアクセス方法です。
時間はおおよその目安です。
拝観時間 ⇒ 8:00~17:00
拝観料 ⇒ 500円(大人一般)。ただし、時期により拝観料不要。
※光明寺以外は距離がある為、バスやタクシーの移動が良いと思われます。
※距離、時間はおおよその目安です。「約~」などは見にくくなる為省いています。
(※まだまだ作成、編集中です。)