法華宗(本門流)の本山。
本尊は十界大曼荼羅。
日蓮宗洛中二十一ヵ寺本山(現在は十六本山)の一つ。
開山の日隆(にちりゅう)が応永二十二年(1415年)に油小路高辻に創建した本応寺が前身。
天文法華の乱での火災後、中興。
天正十年(1582年)に明智光秀が織田信長を自刃に追いやった本能寺の変で再び焼失したが、
同二十年には豊臣秀吉の転地命令で現在地に移転。
その後も火災にあい、現在の同舎は昭和三年(1928年)の建立。
なお、寺中の高俊院の日甫(にっぽう)(大住院以信)は華道本能寺の始祖。
境内には織田信長の供養塔をはじめ、文人画家の浦上玉堂・春琴父子の墓もある。
国宝の伝藤原行成筆の書巻は「本能寺切(ぎれ)」と呼ばれ、
鳳凰文の雲母(きら)刷りのある四枚の唐紙に小野篁(おののたかむら)・
藤原道真・紀長谷雄(きのはせお)の文書を行成が記したとされる。
京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町には「本能寺跡(ほんのうじあと)」がある。
織田信長が明智光秀に襲われ自刃・焼失した本能寺は、現在地の寺町御池ではなく、
堀川四条もしくは四条西洞院辺りにあり、寺域は東西150メートル、南北300メートルあったとされる。
(「増補版 京都・観光文化検定試験 公式テキストブック」より参照)
本能寺の変や織田信長最期の地として知られる本能寺です。
しかし、当時本能寺の変があった場所からは少し移動しています。
実際に本能寺の変があった場所は、今ある場所(寺町御池)から西へ約2キロほどのところです。
そこは今では本能寺跡(ほんのうじあと)と呼ばれ、石碑も建っています。
実際本能寺の変があった場所、織田信長が討たれた(もしくは自害した)場所とは違いますが、
本能寺であることには変わりません。
今でも織田信長や歴史が好きな人にはたまらない場所です。
境内には雄大な本堂の他、建ち並ぶ塔頭寺院や小さな石庭などがあります。
また東側には、織田信長の死後、三男の信孝の命によって建てられた「信長公廊」などもあります。
そして信長公廊のすぐ側には「本能寺の火伏せの銀杏」と呼ばれる巨大な銀杏の木があります。
本能寺には「火伏せの銀杏」と呼ばれる樹齢400年とも言われる巨大な銀杏の木があります。
この銀杏は、本能寺が今の本能寺跡(実際に本能寺の変が起こった場所)にあったときに植えられ、
本能寺の変の後に現在地に移植されたとされています。
そしてこの銀杏は京都大火の際に、水を噴き上げて火災から人々や寺を守ったと伝えられています。
その為、本能寺の「火伏せの銀杏」と言われています。
なお、2004年には京都市の保護樹にも指定されています。
住所:〒604-8091 京都府京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522
※その他のアクセス方法もあります。上記は一般的なアクセス方法です。
時間はおおよその目安です。
拝観時間 ⇒ 6:00~17:00
拝観料 ⇒ 境内自由・無料
※距離、時間はおおよその目安です。「約~」などは見にくくなる為省いています。
(※まだまだ作成、編集中です。)