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山号は清香山。
本尊は地蔵菩薩。
天台宗の尼寺。
推古天皇二年(594年)に聖徳太子が父用明天皇の菩薩のために建立したと伝えられる。
『平家物語』には、建礼門院が出家の後、
文治元年(1185年)に当寺に隠棲し、翌二年春に後白河法皇が御幸したと記す。
平成十二年の火災で本堂などを焼失したが、同十七年に復興された。
本尊の地蔵菩薩は、聖徳太子作と伝えられる六万体地蔵尊である。
平成十二年の火災で損傷し、新たに復元された本尊が本道に安置されている。
初代は、聖徳太子の御乳人であった玉照姫(たまてるひめ)。
以来、代々高貴な家門の姫君らが法灯を守り続けている。
第二代の阿波内侍(藤原信西の息女)は、崇徳天皇の寵愛を受けた女官であったが、
建礼門院には宮中より仕えた。
出家後に入寺し「大原女」のモデルとされている。
第三代の建礼門院徳子(平清盛の息女、高倉天皇の中宮で安徳天皇の国母)は、
文治元年(1185年)九月に入寺。
源平の戦いに破れ、壇ノ浦で滅亡した平家一門とわが子安徳天皇の菩提を弔い、
終生をこの地で過ごされ閑居御所とされた。
本堂の内陣や柱は飛鳥様式であり、古代以来の様式を踏襲している。
外陣は慶長八年(1603年)に豊臣秀頼が修理させた桃山様式を、古式通り忠実に復元したものである。
江戸時代には豊臣秀頼や淀君、徳川家康らが再興に手を尽くした。
本堂前西側の庭園は『平家物語』当時のままであり、
汀(みぎわ)の池、千年の姫小松、苔むした石、汀の桜などがある。
姫小松は平家物語に登場する松として伝えられる。
本堂前北側の庭園は、回遊式四方正面の庭であり、林泉・木立・清浄の池として表現される。
特に石清水を引いた三段の瀧は玉だれの泉と称し、一段一段高さと角度が異なり、
三つの瀧のそれぞれの異なる音色が一つになって合奏するかのように作庭されている。
本堂手前右側の南蛮鉄の雪見燈籠は、太閤豊臣秀吉の寄進により桃山城から移されたと伝えられる。
本堂右手裏山には、建礼門院大原西陵が所在し、五輪塔の仏教式御陵として珍しい。
翠黛山には阿波内侍をはじめ、女院に仕えた五人の侍女の墓地群が見られる。
(「京都大原 寂光院 しおり」および「増補版 京都・観光文化検定試験 公式テキストブック」より参照)
寂光院は自然溢れる境内、庭園や建造物、六万体地蔵菩薩など見所が多いです。
寂光院の入口、山門前は長い石段になっています。
この石段付近にはもみじがいっぱいあり、季節に応じて見事な景色を見せてくれます。
本堂付近の庭園は池泉式となっており、水辺の美しい景色が楽しめます。
春から夏にかけては新緑や青もみじ、秋には鮮やかな紅葉が見られます。
また、建礼門院御庵室跡付近では見事な苔も楽しめます。
本堂は、残念ながら平成12年の火災(放火と言われている)で焼失しましたが、
平成17年に再興され、今では立派な姿を見ることができます。
六万体地蔵菩薩は本堂に安置されています。
なお、本堂火災の際の新聞記事や焼けずに残った地蔵菩薩などは宝物殿で見ることができます。
本堂前には変わった形の雪見灯籠(ゆきみどうろう)が配され、
豊臣秀頼が本堂を再建した際に伏見城から寄進されたものと伝えられています。
寂光院は、平清盛の息女である建礼門院(けんれいもんいん)が終生を過ごした地とされ、
平家物語ゆかりのお寺としても有名です。
なお、大原発祥のしば漬けは、建礼門院が「しば漬け」と名付けたとも伝えられています。
寂光院は多方面から見ごたえのあるお寺です。
寂光院は春から夏にかけて鮮やかな新緑や深い青もみじを見ることができます。
山門前の石段や本堂前などで緑の世界を楽しむことができます。
寂光院は京都大原のもみじの名所です。
山門前の石段や本堂付近、茶室の孤雲や汀の池(みぎわのいけ)付近など多くのスポットがあります。
天気の良い日には輝く鮮やかな紅葉を、曇りや雨の日にはしっとりとした風情ある紅葉を楽しめます。
寂光院では多様な雪景色が楽しめます。
長い石段と山門付近の木の枝に花が咲いたような雪景色、
本堂前の風情ある雪景色、鐘楼付近の華やかな雪景色などです。
また、建礼門院御庵室跡付近では苔を覆う一面の雪景色も見られます。
住所:〒601-1248 京都府京都市左京区大原草生町676
※その他のアクセス方法もあります。上記は一般的なアクセス方法です。
時間はおおよその目安です。
拝観時間 ⇒ 9:00~17:00(※時期により多少異なる。事前確認要。)
拝観料 ⇒ 600円(大人一般)
※距離、時間はおおよその目安です。「約~」などは見にくくなる為省いています。
(※まだまだ作成、編集中です。)